◎修行について。福岡時代。吉木辰次郎先生の話。あの時修行をやり抜いていたらもっとお徳に触れていたのに、と。今朝からしきりにそのことを思う。修行は一気にやり抜かねば。真剣がいる。それも二本差しの侍のような。朝の修行だけに終わっちゃいかんのです。一日が修行で終わらなきゃ。成り行きを大事にせにゃならんのであり、その成り行きとの対決に於てです。ここで負ける様な信心では、いかに素晴らしい朝参りが出来ておっも表行が出来ておってもです。いわゆる頬被りの一本差しの町奴的信心になるのです。P
%1吉木辰次郎先生の述懐「私が、あの時にやりぬいとったら(内容は不明)、もっと素晴らしいお徳に触れとったんだけれどもなあ」
%2今、合楽全体がひとつの修行に入っている(内容は不明)
%3ひと眠りの修行、結局成就しなかったと。
%Aお夢とも、御心眼とも「月次祭の時に鯉のお供えをするガラスの容器が、磨きに磨き上げてある。それに水晶の様な水が半ば入れてある。もう後は、これに鯉を入れれば、お供えが出来るというような情景」器も揃い、お恵みの水もそこに足ろうて後に、そこに私どもの信心の徳が、これに泳がせられたら、そのまま御神前に奉納が出来、神様もそれを受けて下さるというような状態の時にある様な感じがする、と。
%Bある人のことをお願いされて頂かれたのに、『なる程、一生懸命洗濯をやっているのですね。いわゆる垢落としをやってる訳なんです。そして、それが竿にこうして干してある。ところがその、何と言うんですかねえ。春風と言うか、風に乾いてから、その乾いてしまっている。そして、その春風が吹きよりますもんですから、その埃で又、汚れているというような感じのところを頂くんです』。せっかく洗濯したが、又洗わんならん。皆さんが例えば、本気で修行させて頂いても、夕方には又、こげん汚れてしもうとるという様な事じゃいかんのです。
%G福岡教会日参。秋永先生は大橋から参拝。夜の御祈念。吉木先生夫妻が裏に入りなさいと。吉木先生は「あのときあれをやり抜いていたらもっとすばらしいお徳に触れていたのに」と述懐。
%GorH先覚たちのされた修行をしておられた頃の話。三代金光様の修行「一眠りの修行」が一番難しかったと。
%W修行には一服させてくださる所がある。お宮の石段途中にある休む所に例えて。
%W修行のひときりを洗濯物に例えて。「洗濯物を洗い上げ、干し上げ、霧を掛け、アイロンで熱を当てて出来上がり」
%Z鯉ということは御神徳
%Z鹿の角の刀掛けと言うのは。ですから、私が思うのには、きちっとした二本差しのおかげの頂けれる、信心にならなきゃいかんという事です。そこんところがですね、町奴的な真剣に終わってしまう。
昭和四十三年二月七日 朝の御理解
%Gもう、20年も前の事でございましたでしょう。私が福岡におります頃、荒戸の教会に毎日、日参のおかげを頂いておった。秋永先生も大橋から、やはり荒戸におかげを頂いて、おりました時分でございました。夜の御祈念にお参りさせて頂きましたら、丁度、秋永先生もやっぱり、夜の御祈念に参って見えておりました。御祈念が済んでから、吉木先生御夫妻が、「まあ、裏に入りなさい」と言うて、親先生の控えに寄せて頂いた。
%1それから、お茶をよばれましたり、まあ、いろいろと信心話をして下さった事がございます。そん時に、吉木先生がこういう話をなさいました。「私が、あん時なあ、私があん時に本当にやりぬいとったら、もっと素晴らしいお徳に触れとったんだけれどもなあ」と言うて、非常にそれを残念そうにして、それを述懐された事がございます。
%1「私があん時になあ、あん時」と言うことは、私には解かりません。また、どういう御修行をなさっておったかも知りません。けれども、私はあん時にあの修行をやりぬいとったら、今頃は、もっともっと徳ではなくても、たいへんお徳を受けられた先生ではあるけれども、「もっと素晴らしい徳に触れる事は出来とっただろうになあ」とおっしゃいました。
けれども、私は、今朝方からしきりに、その事を思いださせて頂くんですが。これはですねえ、もう、なんがりなんがりじゃいかんです。一気にパーッとやってしまわねば。だから、失敗したからやり直すじゃ、もういけんです。
%2今、合楽全体が、ひとつの修行に入っているような感じです。皆さんが様々な工夫をなさっておられます。様々な修行をなさっておられます。が、本当にあの時に、修行しぬかせて頂いとったら、あの時に、おかげ頂いとったらと。後で後悔のない様な、信心を身に付けておきたいと思いますね。お徳を受けるなら、お徳を受けておきたいと思います、ね。
今朝、私、丁度目覚ましのおかげを頂いたのが、丁度4時でございましたが、お夢を頂いておりました。%Aお夢とも、御心眼とも解からないようなことでした。けれども、もうそれは実に鮮やかにというか、印象的にというか、ここで月次祭の時に鯉のお供えを致しますですね。『あのガラスの容器が、もう磨きに磨き上げてある感じです、ね。それにもう、それに水晶の様な水が半ば入れてございます。もう後、これに鯉を入れれば、お供えが出来るというような、情景を頂くんです。』結局、私は、%z鯉ということは御神徳とおっしゃいます。段々容器も揃い、言わば、お恵みの水もそこに足ろうて後に、そこに私どもの信心の徳が、これに泳がせられたら、そのまま御神前に奉納が出来、神様もそれを受けて下さるというような状態の時にある様な感じがするのです。
今ひとつ、そのまあ、私が、吉木先生がそうおっしゃったから、「お徳を受け損ないなさった」ということじゃないです。私どもの真似の出来んような御修行をなさり、三代、福岡の三代目として御養子にお出でられるほどの方ですから、立派な信心をなさり、けれども、あの時におっしゃった事が私の耳からはずれません。
「あん時なあ、私がもう、ひと頑張りしとったら、もっとましな事を受け取ったろうに」という様に、何か私の耳から、あの時なあ、もうひと押ししとったらという様にですね。後悔のない様な、これは私も感じる事でございます。けれども、もうダラダラーッとなったらおかげに成りませんです。だからまた、やり直そうじゃったら駄目です。不思議に。
ですから自分達の心の上にです、何かやむにやまれん修行精神が湧いてくる。心に熱意が湧いてくるという様な時にはですねえ。もう一気に押して、最後のところ迄頂いておかなければなりません。
昨日、秋永先生のところの奥さんがお届けされます。もう本当に言うならば、この修行が一番難しいと思うんですけれども、私どもも色々修行さして頂いたんですがね。桂先生がなさった修行も、福岡の吉木先生も、久留米の初代の石橋先生も、私にとっては、三井教会の初代の荒巻弓次郎先生あたりが、あゝいう特別な、いろんな修行をなさったんですね。
%GorHそれを聞きかじりしとりますから、真似ごとでもさせて頂いたんですけれども。三代金光様が、お続けになっておられた修行が一番難しかったです。これはね、「ひと眠りの行」とおっしゃった。 金光様は、おやすみになって目が覚めたら、もうお起きになるそうですね。ひと眠りの行、いかにも見易い様であって大変難しいのですよ。
もう、あの寝たかと思いますと、今寝たばかりのところへ、もう起こされる事があるんですよ。それかというとですね、もう朝の御祈念もなんもない。もう七時頃ぐらい迄起こしなさらん様な事もあるんですよ。そういう修行を本気でさして貰いよりますと、神様は、そこは生身をもっている人間ですから、そうは出来ないところは神様の方が御承知。だから、こちらが、そこんところを加減とってちゃなりません。
そういう意味合いで、秋永さん、あんたはもう素晴らしいじゃないですか。そういう難しい修行が、ある意味合いでは楽に出来ておる。楽にと言うばってん、一心発起しておられるから出来るのでしょうけれども。やはり、あの本気で一心発起しなければ駄目です。修行は一心発起しておられるから、出来るのでしょうけれども。
日に二時間半か三時間、それ以上休んだら、「もう必ず、毎日お気づけ頂く。もう、それがはっきりしとりますから」という様なお届がございましたから、私が申しました。「それが、ずーっと一生続けられるといった様な事じゃありませよ。けれども、ここに思い立ちなさっったら、やりぬかにゃいかん」。
%Wたとえて言うなら、高良山の様な、あゝいう高いお宮さんに参りますと石段がある。けれども、ずっーと石段だけじゃありますまいが、百段なら百段登りますと、上には広場があります、必ず。普通のお宮さんに参りますと、もう五十段目なら五十段目の所に、ちょっと一服する所が必ずある。そこは私どもが求めてするのじゃない。そこへ出た時に、私どもがおかげ頂いたらいいのだ。
%3ひと眠りだから、神様がそれこそ、六時間でも七時間でも休ませなさるといった様な時もあるのです。私も、この修行は実を言うたら成就せんなりにしまえたんです。けれどもやはり、この修行は難しかった。そこで、私は思うのですけれども、同じ修行させて頂くなら、本当にきちっとした修行をさして貰いたい。神様が受納下さる、本当に受けて下さる、納めて下さる修行でなからなければいけない。
先日、松栄会の時の発会の時に、麻生さんでしたか話ておられましたが、御心眼とも、お夢ともつかず頂かれたのが、%Z『丁度、あの鹿の角がこう、刀掛けがありますね、鹿の角で出来ました。あれを頂くんです。あら、これは鹿の角の刀掛けだなあと思うたら、それが松の枝であった』と言う、お知らせであった。
先生どういう様な事でしょうか。「それはあなた達の信心に、いわゆる真剣を掛ける事だ」と申しました。刀を掛ける真剣を掛けるのだ。木刀じゃいかん、真剣を掛けるのだ。松の枝ということは、やはり松栄会だから、桂松平先生の松かもしれん。石橋松次郎先生の松かもしれん。
結局、その鹿の角が、あら、これは鹿の角と思うとったら、松の枝に変わると言うところを頂いたと言われるように、いかにその、本気で修行しょうとする人たちにですね。せっかくするならば、いわゆる鹿の角に掛けられるような、真剣を求めておられる訳なんです。
町奴なんかの真剣と言うのは、そんな刀掛けに掛ける様な事なんかないですものねえ。いわゆる侍が二本差し、大、小刀二本を掛けさせて頂くように、あれは出来ているんです、%Z鹿の角と言うのは。ですから、私が思うのには、きちっとした二本差しのおかげの頂けれる、信心にならなきゃいかんという事です。そこんところがですね、町奴的な真剣に終わってしまう。
それはゆかたがけでもいい、三度笠でもかまわん。一本どっこの落とし差しでも真剣は真剣ですけれども。同じなら、侍の二本差しの方がいいでしょうが。一遍、町奴に身を落としたら、もうなかなか侍になる事は難しいと言う様に、今日、私が申します様にですね。修行を一遍抜けますとですね、もう出来んです。
それかと思うと、今度はもっと堕落致しますとですね。もう一生を、頬被り的な信心に終わってしまいますです。自分の顔を頬被りして隠しておかんならんような信心にざしてしまう。あら、あゝたん方は金光様の信心しなさるとですか。それが何十年たってから。そら頬被りしているからわからんとですよ。それ位の信心ぢゃいかんでしょうが。
自分の勤め先であろうが、自分の周囲の皆がです、あちらは金光様の御信者さん、一家を上げての御信心をなさる。だから、「神様ごと」と言うたら、絶対あそこにゃあ、もうその用があっても、「行かれん」と言うぐらいのものがですね、皆に認めて貰うぐらいの信心でなからなきゃいかんでしょうが。
はあ、あそこは大祭の日には、もうお店を休んで行きなさるけん。何日の日に行ったらね、あそこは買い物が出来ないと言われる位にですね、通らにゃいかんでしょうが。頬被り的なですね。金光様の信心しとるのやら、なんやらかんやら、分らんごたるですね、信心に終わったんじゃつまらんです。
今日は、その三つの事を頂くのです。頬被り的な信心から、町奴が一本の落とし差し的な信心から、いわゆる、きちっとした羽織、袴を付けて、二本差しの、いわゆる侍の信心と言いますか。それにはですね。お互いの信心が、こうした朝参りの修行も大変な修行であり、様々な表行があります。そういう修行を一気に、こうさして頂く。そういう心にですね、一心発起した時にやり貫かさせて頂かにゃあいかん。
%Zそこで二本差しの信心とは、そういう信心と同時にです、いわゆる信心生活が生活になり、信心になっとらなきゃならん。この二つが揃わにゃいかん。言うなら、表行と心行が足ろわにゃいかんという事。いわゆる日常生活の上にです、本当にあの一心発起した時に出来るんですよ。表行のひとつでもさして貰おうかという時にですね。
なる程、お商売さして頂くなら、十銭儲かるものは八銭とおっしゃる。それがお道の信心振りなのだから、それが出来るんです。いかにも目先は二銭損のようであるけれども、それをお道の信心さして頂いておる者は、修行と思うてそうさせて頂く事が出来るのです
商売だけの事じゃありません。もう一事が万事にです、実意丁寧神信心が生活の上に現わして行く事が出来る。心の上にも、形の上にも、表行の上にもこれが、こう一致してまいりまして、その修行が成就致しますところからです。いわゆる、その二本差しが許される様なお徳が受けられるのです。
せっかく頂くんでございますから、せっかくの朝の修行だけに終わっちゃいかんのです。一日が修行で終わらなきゃ。〔そう〕いう成り行きを大事にせにゃならんのであり、その成り行きとの対決に於てです。ここで負ける様な信心では、いかに素晴らしい朝参りが出来ておっも表行が出来ておってもです。いわゆる一本差しになるのです。
私が今日、ある方達の事をお願いさして貰いよりましたら、%B『なる程、一生懸命洗濯をやっているのですね。いわゆる垢落としをやってる訳なんです。そして、それが竿にこうして干してある。ところがその、何と言うんですかねえ。春風と言うか、風に乾いてから、その乾いてしまっている。そして、その春風が吹きよりますもんですから、その埃で又、汚れているというような感じのところを頂くんです』。
せっかく洗濯したが、又洗わんならん。皆さんが例えば、本気で修行させて頂いても、夕方には又、こげん汚れてしもうとるという様な事じゃいかんのです。これはですね。今日の御理解は、皆さんが本気で一心発起。そして、その修行に取り組んで本当に神様が分かりたい、本当の神様を身近かに感じたいと。どうでも、おかげを受けたいという特別の信心がなされる時にはですね。
%Wその信心が、修行が、そういう意味に於て、表行、心行、参っとる時だけじゃない。家庭に於ても、本気での信心修行がですね。信心修行、いわゆる生活がそのまゝ、信心である様な信心生活が営まれていかなければです、おかげにならんです。
%W洗濯はしとるばってん、ほうからかしとるもんだから、乾いてしもうとっても気付かんでおる。そして、また埃がしておる。吹き倒れてから、その竿が下に落ちてから地で泥が付いて汚れとる。これじゃ、洗濯したっちゃなぁにもならんでしょうが、皆さん。そこでちよっと、そのへんのところをいつも心に掛けておかなければ。
%Wもう乾いておるだろうかと、言うのならですね。一遍取り込んどいて、一遍水吹きでもして、そして熱いアイロンをシャーッとかけ上げさして頂かなければ。いわゆる一貫の終わりという事にはならんのです。
%Wそこんところを疎かにする。埃がしょっても、また取り入れとってもアイロンを掛けない。最後の熱が大事です。ところが途中でですね、水をかけられようなところがあるんですね。修行しょっても、これだけ修行しょっとったっちゃ、やっぱり、クーッとするごたるこつがあるですよ。
%Wそりゃ丁度、霧吹きで水かけられてるようなもんですから。せっかく洗濯したなら、ジワーッとなってるようなもんです。だから、そこんところが大事なんです。「はあ、今こそ霧吹きで水ば、かけられよるとばいなぁ」と思うて、その後を、熱を出してシャーッとアイロンかけ上げますと、見事にアイロンがかき上げられて立派な洗濯物が出来るようなもんです。
%W信心の修行のひときりひときりというものは、丁度洗濯物を仕上げていくようなもんです。朝だけは見事にやった。洗濯はした。もう干しとるけんそれでよかじゃいかんのです。もう乾いとろうという頃には取り込まにゃいかん。アイロン掛けにゃいけんようにですね。
そこんところを皆さんが、信心を本当に進めておいでられるなら、もう言うならば、鯉を入れていいばっかりに器はもう磨き上げられてある。中には、綺麗な水が入れてある。「誰が一番口に、さあ、鯉をここへ持って来てお供えするか」と言ったような感じのところにあるような感じがいたします。
まずお互いが一心発起して、いろんな信心修行に取り組ませて頂く時にです、もうそれが、ダラダラしたら駄目です。「神様に日参します」と言うといてからやめた。そげなこつじゃ絶対おかげは受けられん。例えば、そういう風に一心発起したら、なにがなんでもやり貫かなければ信心にはなりません。いわゆる修行にはなりません。
そこんところば、しだごだにしたら、おかげは受けられん事はないでしょうけれども、おかげがしだごだになります。スキッとした、垢抜けした、やはりおかげ頂かせて頂くためには、そういう垢抜けした信心修行に取り組まなければいけません。
同時に、せっかくおかげ頂くんですから、鹿の角に掛けられる、いわゆる、「二本の刀の頂けれる、二つの真剣さ」と言うのが、なからなきゃいかん。表行、心行、簡単に言うなら、具体的に言うなら、朝参り、そして帰ってからの日常生活の上に教えを本気で活かしていかなければいかん。それに本気で取り組まなければ二本差しになりません。
素晴らしい修行ができる人があります。けれども日常生活が乱れておる人があります。それでは、成程、ひと足でも無駄にはさせんという神様ですから。それが成就致しますと、やっぱりおかげは頂きましょうけれども、丁度町奴が落とし差しを差しておるような者に終わったり。もっと堕落致しますと、一生を頬被りで終わらなければならない様な、信心に堕してしまうのですよ。
言うならば、「金光様、金光様」と言うて参りよるけれどもとか、又は、「あら!あっちは、金光様の信心しっしゃるとばいの、つい知らじゃった」と、身近かなもんでも知らん位な信心で終わってしまわなければならない。頬被りしとるから分からん。堂々とした信心をですね、堂々と私は行に取り組み、心行、表行、信心生活というものを大事にさして貰うて、おかげ頂かにゃいけんと思います。
私は昨夜も、皆さんに聞いてもらったんですけれども、私は毎日、この頃、隅田先生が見えた時のパンフレットを読ませて頂くんです。毎日読ませて頂いて、「もう、信心はこれに極まっておるなぁ」と思うのです。そして、「これが今日、今出来ておるか、今日出来たか」という事をいつも思うて見る事によってですね。あの御理解が生き生きとしてくる。
丁度、それはですね、あのお茶の手前をするようなもんだ。同じ、毎日読んでるけれども、お茶の手前をすると、やっぱり昨日と今日は変わることはないんですけれども。それでも段々味わいが深うなってくる。その味わいが深うなってくる様な信心をですね。頂かせて頂かなければいけません。
そして表行に心行に本気で取り組ませて頂いて、神様が、もうお受け下さる寸前にある。今、合楽で一生懸命御修行なさっておられる方達は、そういうおかげの受けられる様な感じのところでございますから。見事に磨き上げられた器に、澄みきった水がたたえられたのでございますから。
「本当に、これが生きた神様の働きであろうか、これがお徳というものであろうか」と言うようなものをです。頂かしてもらい感じさせてもろうて、「神様有難うございます」と言うて、お礼が申し上げられる様な信心を本当に身に付けたいと思います。どうぞ。